母は、9人兄弟の7番目で、兄を3人戦争で亡くしています。「軍から突然戻ってきた兄に手を引かれながら、田んぼの畦道や畑・河原など村の中を黙ってひたすら歩いたことがある。思えば、自分が育ったところに最後のお別に帰ってきたと思う。」特攻隊で亡くなった一人の兄の思い出が、10歳に満たない幼い母の記憶の中に焼き付いていました。また、「夜中に目が覚めると、母ちゃんが台所の隅で声を殺して泣いていた。声をかけられず、ただ黙って見ていることしかできなかった。しゃがみこんで泣いている後姿を忘れることはできない。」と話してくれたのは、私が親になってからでした。幼いころの切ない思いを、時を経てやっと話してもいいと思うようになったと言いました。
お台場の船の科学館に、かつて世界一の性能を誇った旧日本海軍の「二式大型飛行艇(二式大艇)」が屋外展示されています。通信兵として最後の二式大艇に乗り込んだのは、私の伯父です。昭和20年4月12日、沖縄の海上で打った通信を最後に、その後の消息を絶ちました。18歳の若い命でした。
戦後66年経ち、戦争の悲劇を直接伝える人も少なくなってきています。子どもを亡くした親の気持ち、家族の張りつめた思いを、命の尊さを語り続けていかなければなりません。戦争は二度と起こさない。自分の中に誓いを新たにした日でした。